滝沢正光引退
一徹で、12時間くらいぶっ通しで原稿書いて、朝。
フラフラの頭でスポーツ新聞を開けたら、普段はチマチマした文字で埋まっている公営ギャンブル欄にバカでかい文字が。
「怪物」滝沢正光引退
一瞬、徹夜でアタマがボケていると思った。
松本整の突然の引退、同じように突然いなくなった内林久徳。先日の海田和裕の引退や、オレが競輪をはじめるキッカケになった愛憎半ばの吉岡稔真の引退。どれも驚きはしたが、なんとなく納得いく部分もあった。
でも、滝澤は一生走るものだと思っていた。勝手に思っていたのではない。滝澤本人が「B級になっても走ります」って言ってたんだから。
記事を読み終わると、15年前の冬を鮮明に思い出した。
平成4年の年末あたりから競輪場に通うようになったオレは、滝澤の全盛期を知らなかった。見始めたころは先行屋と自在屋の間のような存在で、先行では60期台のイキのいい選手に敵わず、マークにまわっても元が先行屋なので競り負ける。それでもネームバリューがあって人気になるので、切ってオイシイ選手。これがオレの当時の滝澤に対する評価だ。
「吉岡のアタマで間違いない」
平成5年の競輪グランプリ。オレは確信していた。神山や海田の先行では、今の吉岡には通用しない。有馬で減らしたカネを取り返すチャンスはここしかない。年越しのゼニは持たないとばかりに、有り金を穴場に突っ込んだ。
「ウラは買わんでエエの?」
一緒に甲子園競輪場についてきていた、友人Mが問いかける。
「ロートルやで、滝澤なんて。吉岡を差せるワケがないやん」
オレは即座に否定。
「滝澤って、昔はスゴイ人やったんやろ。有馬はテイオーの復活やったし。競輪も復活があるんちゃうん?」
「あるわけないやろ」
数十分後。六甲おろしが吹き荒ぶ、クソ寒い競輪場の小さなモニターにグランプリのレースが映る。テレビで見た「力道山の街頭テレビ」のように人がウジャウジャと集っている。
打鐘の音がかすかに聞こえ、レースが動き出す。吉岡はいつものように動きがいい。4コーナーを回って直線、吉岡がゴールを真っ先に駆け抜けようと伸びた。
(よっしゃぁ~!)
そんな声が口から出そうになった瞬間、車間を強引に割って、黄色と黒(だったと思う)の勝負服がスッと抜けた。
「滝澤や……」
地ベタにヘタりこむオレ。その姿を見てケラケラ笑うM。
「だから言ったやん。今年のテーマは〝復活〟やねんって」
駅へと続くオケラ街道。灰色の集団の中で、5→2の車券を取ったMが繰り返し繰り返し何度も言う。最初はテキトーにうなづいていたが、あまりにもしつこいので。
「うるさいねん。〝復活〟って言葉は、競輪に気軽に使ったらアカンって――」
「復活やん」
「競輪選手は何十年も走んねんで。デビューして5年くらいでピークになって、残りの20年は徐々に落ちていく。2年やそこらのブランクは復活とちゃうわ」
「おまえ、ロートルって言ってたやん」
「野球選手はみんな勝ち逃げするやろ。ピークでヤメたい、とかワケわからんこと言って。競輪選手は、天下取ったヤツも、落ちるところまで落ちて辞めていく。人が衰えていくところをリアルタイムで見れるスポーツは競輪だけ。だから、エエねん」
「ワケわからんこと言ってるけど……、負け惜しみやろ?」
「……うん」
甲子園球場の外野入場口から、甲子園の駅まで私とMは無言で歩いた。
このブログを書こうと思い、平成5年の競輪グランプリの結果を調べて驚いた。
「あのときの滝沢って、まだ33歳だったんだ」
あのときの滝沢は、今のオレとほぼ同い年だったのだ。
伸びているやら。落ちているやら。
滝沢選手、おつかれさまでした。あのときは「ロートル」なんて呼んですいませんでした。
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